shamrock 2 北アイルランドバスツアー2 <8月24日>




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行程 : ドニゴール→シュリーブ・リーグ→デリー

 2日目はシュリーブ・リーグ(Slieve League)というアイルランドの中でもかなり有名な岸壁(峰?)のハイキングから始まった。天気は曇っていたものの、比較的歩きやすい気候で、みなめいめいのスピードで尾根づたいに上り坂を進んでいった。30分ほど歩き、少し息が乱れてきた頃、美しい大西洋が顔を出しはじめた。でも我々の息と同時に、天気の方も少しずつ乱れてきた。

 ぽつぽつ、雨が降り出した。アイルランドでよくある「小雨」なら、まあ大した事はないだろうと、ウィンドパーカーを羽織り写真を撮り続ける。
 

最初のうちは意気揚々と尾根を進む
しかし、峰の頂上に着いた頃、それは「大雨」となった。一行は今、完全に雨雲の中にいた。

中腹を越えた頃、海が見えてきた

山の頂付近。遠くに砦が見える

 Slieve Leagueの頂きから海を見下ろす
上の方は雲がかかっている
 雨が本格化したにも関わらず、ガイドさんは頂きでオシーンとティル・ナ・ノーグの伝説を語りはじめた。有名なケルト神話のひとつで、凄く乱暴に言うとアイルランド版「浦島太郎伝説」*だ。ガイドの語り中、雨足はどんどん強くなっていく。確かに面白い語り口なんだが、気がそがれはじめる。雨が土砂降りになり始めた頃、「続きはバスで!」とうち切られて速攻下山が開始された。
 登山に30分かかれば下山にも30分近くかかる。その間、パーカーに覆われている場所以外で濡れていない場所は一ヶ所もなくなり、靴や靴下は倍くらいの重さになっていた。

 這々の体でバスに戻った時、乗客の一人が"Welcome to Ireland !"と叫んだ。ずぶぬれなのに、何故か心が和む。
 一行は予定を変更し近くのYHへ行き、急ぎ濡れている全てを着替えた。みな用意周到に長ズボンを2着、靴も2足もしくはビーサンを持っていたが、どちらも持っていなかった僕は、短パンと濡れ靴(裸足)で通さないといけなかった。その日はそれ以降、足の寒さとの戦いだった。

 途中Donegal Beachでしばし休憩となったが、砂浜など濡れ靴には天敵だったため、ほとんど歩けなかった。この日はその後、あまり何かをした記憶がない。確か、何とかというドルメンを見たのだが・・・名前を完全に忘れた。

雲に覆われたDonegal Beach
 ドルメンは何千年も前の先住民が造った石墓だったと思われるが、ケルト時代には妖精の出入り口とか巨人の枕とか言われ、畏怖の対象とされていた。しかしこのドルメン、散歩にきていた犬がマーキングしていた。昔は妖精が占有したドルメンも、今では犬のモノになっているらしい。

 ドルメンは少し遠くから見るのが良い

ドルメン近景


ダイヤモンド広場のオベリスク
 その後も色々な場所をちょっとずつ立ち寄りながら、5時前頃にデリー**に着いた。
 北アイルランド第二の都市であるデリーの街は、その天気と人気の無さもあってか、暗くもの悲しい雰囲気だった。

 デリーで専門ガイドさんのウォーキングツアーに参加したのだが、濡れた靴の寒さに気を取られている上彼女の早口が理解できず、残念ながら説明の1/5も判らなかった。ただ事件の舞台の物悲しさだけが伝わってきた。

カトリック系が住むボグサイド地区

 塀の落書きは、内紛の虚しさを際だたせる

ボグサイド地区入り口。この周辺で、
かの惨劇は起きた
 
 血の日曜日事件の犠牲者追悼碑
 デリーはいつくもの悲劇の舞台となっているが、やはり特に有名なのは1972年1月に起きた「血の日曜日」事件だろう。英国軍による武器を持たない市民への無差別虐殺という悲劇を風化させないため、ロスヴィル通りの入り口はわざと暗い雰囲気を保ってるんでは無かろうか、そう思えるほど、息の詰まる思いがした。

 しかしそんな思いも、早くここのパブで音楽を聴いてダンスを踊りたい、という気持ちには勝てなかったようだ。ツアー終了後ダンスができると言われていた城壁内にあるクラフト村へ。
 ・・・が、クラフト村は1軒のパブを残し静まりかえっていた。YHのインターネットで調べた結果、ダンスホールは9時〜17時でやっていることが判明した。真っ昼間かあ!
 やむを得ないのでその日は普通(でもちゃんとアイリッシュミュージックが演奏されている)パブへ。ここの演奏は結構レベルも高かった。11時も過ぎるとパブは常連と旅行者が入り乱れて満員となっていたが、そんな中一番前の正面に陣取って音楽を聴く。ここだとツアーの仲間と英会話のレッスンをし続けなくてすむのが良い。
 試しに「Whiskey in the Jar」をリクエストしたら快く「東京から来てくれた客人のために歌います!」と歌ってくれた。隣の酔っぱらいと何かしらんけど意気投合したりもした。

 夕方は重苦しかったが、夜はデリーの人にふれ、心暖かい気分で眠りにつけた。でも次来るときはクラフト村があいている昼に来よう。
 
Derryのパブで

* 常若の国ティル・ナ・ノーグに住む女性に恋したオシーンが・・(略)・・奥さんとティル・ナ・ノーグで幸せの日々を過ごし・・(略)・・アイルランドに帰ってきたら世界が変わっていて・・(略)・・馬から滑り落ちたとたん300歳の老人になった、という話である。こう書くと実も蓋もないが、実際は凄く面白い民話。

** 知っている方も多いが、デリー(Derry)という町は歴史的な経緯から表記法が2つある。一般的にプロテスタント系の住民はロンドンデリーと、カトリック系の住民はデリーと呼ぶ。ベルファスト育ちのガイドさんの母は生粋のプロテスタントのため、ガイドさんが「デリー」と言うと「ロンドンデリー」と直すらしい。ガイドさんもプロテスタントだが、特に呼称には拘っておらず、カトリックとの交流にも何のこだわりも持っていない。こういう世代が少しずつ北アイルランド問題を緩和していくのだろう。

*** 「血の日曜日」事件に関する詳細については、「抵抗の国・アイルランド/北アイルランド問題資料室」や、その他数多くの北アイルランド問題を題材にした著書を参照。この事件で発砲した軍に対する一切の処罰はなく、その後もカトリック住民の不当逮捕、拘留は続いたという。
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