NYテロ事件の波紋
〜 テロに消えたパブ



9月10日 クラス替え

 翌週の月曜、クラス替えがあり、新しいメンバでのクラスになった。正直かなり自分にとっては難易度の高いクラスに入ってしまったが、もう先週の月曜のように臆するのはやめていた。まあ何とかなるだろう、という気持ちでのぞんでいたので、授業も難しいなりに面白かったし、3時間の午後の授業も短いとさえ感じられた。
 たった2週間の留学も半分が過ぎ、一番気持ち的にも充実していたタイミングで、その事件は起きた。


9月11日〜 テロ、その後

 
11日の午後の授業も終わり、郵便局に寄ってから帰ろうとしていたとき、郵便局のおかみさんから「今アメリカで大変な事件が起きているわよ。ビルに飛行機がクラッシュして何万人も行方がわからないらしいよ。」と言われた。*それを聞いただけでは何が起きたかよく判らなかったのだが、大変なことが起きたことだけは何となく理解した。
 しかし家に帰ってテレビをつけてみて、僕の予想をはるかに上回る大惨事が起きていたということが判ったた。それからは辞書片手にテレビに釘付けになった。その日はパブに行く予定を勝手にキャンセルしたが、どうやらみんな勝手にキャンセルしたようで、誰もパブに行った生徒はいなかった。

 翌日のクラスではみなめいめいに近くの雑貨屋で買った新聞を手に持って、何が起きたのかを整理しようとしていた。何しろただでさえ情報が錯綜していた上、情報が英語だったので、正確に何台の飛行機がどこに何をしたのかを知りえていない。ただ、これが単なる事故ではなくテロであるという認識だけは一致していた。
 授業も予定を変更して新聞の読解になったし、その日以降もこの話題が授業の何割かを占めた。そして第7章でも触れたが、アイルランド首相は14日(金曜)を国民の祝日と定め全ての公共機関を休みにし、喪に服すことを宣言した。まことに迅速な対応だった。

 翌13日になって、14日はCorofin中の店もパブも全て閉まることがわかり、少しショックを受けた。何も自分の留学最後の日にこんなに徹底的に喪に服さなくても、と手前勝手に腹を立てたが、怒りの矛先が無かったので、テロリズムに腹を立てることにした。まあ学校が休みにならなかったのが不幸中の幸いだった。結局13日(木曜)にパブに集まり、最後のビリヤードに興じたのだった。

 ちなみにアメリカには4000万人のアイリッシュ系アメリカン(移民後アメリカに永住したアイリッシュの子孫たち)がいて、しかもその多くが東海岸に集中しているため、今回の犠牲者にもアイリッシュアメリカンは数多くいるはずだし、国全体が喪に服したのはそういう理由もあるんだろう。だけど、アイリッシュが100%親米かというとそうでもなく、むしろ大国主義に対する反感もあるようだ。「確かに今回の事件は悲しいけれど、それまでにアメリカは中近東やアフリカで何万人の住民を殺してきているのか。今回またアメリカはアフガニスタンで多くの住民を殺してしまうはず。」と話していたアイリッシュもいた。
 今回のことでいろんな論議が飛び交い、いろいろ考えさせられたが、とりあえず僕ができることはNY在住の友達の安否を気遣うことくらいだった。

* アイルランドとNYの通常時差は5時間だから、ニュースを聞いたときNYはちょうど昼前でした。


9月14日 初めてのミサ

 14日はそういうわけで実に静かな1日だった。おまけに自身風邪を引いて絶不調だったこともあり、授業は全く頭に入らなかった。また昼も全ての店は閉まり寂しいみなそそくさに家路に着いたため、非常に寂しいひと時をすごした。まさに国民の休日だった。
 夜、ホストマザーの車で教会(タイトル画像)へ行った。400人の村人全員が来ているんじゃないかというほど凄い人数が教会に溢れていた。ミサが厳かに執り行われる中、改めて宗教というものが持つ潜在的な力を感じていた。しかしミサ中風邪が最高潮に達して吐きそうになっていたのは辛かった。Corofin中の人が来ているかもしれない教会で、祈りをささげている最中に、それだけはできない!その一念が何とか思い留めた。

 ミサが終わり家に戻ると、もう後は帰国を残すのみとなった。アイルランド留学最後の夜は、犠牲者への冥福と風邪による朦朧とした記憶で幕を閉じた。


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